木のボードゲームに魅せられて

木の新作ボーゲームの開発過程で思いついたことや特許出願などについて気ままにおしゃべりしたい。少しでも参考にしていただいたらうれしな。

小説[日本揺籃ー山門国の女王伝](第1章 ヒナコ誕生)


第1章 ヒナコ(日向子)誕生




九州は筑後平野の南端で、筑肥山地とぶつかる斜面の上の台地(旧・山門郡山川村面ノ上)に面上国の王城はある。王城のある野町は物々交換の市が立ち、ここから南へ原町、北の関、南関までは往来が多く、すれ違える幅(約2m)の道が整えられている。


道の東は佐野山(現・お牧山:標高405m)山系の山裾に、立山(たっちゃま)、赤山、日当川(ひあてご)、待居川(まてご)、佐野、谷軒(たんのき)、五位軒、青々(あおあお)、中原(なかばる)など、大小の集落が点在している。野町から西に向かうと、竹飯(たけのい)から飯江(はえ)川を渡って少し行くと有明海の海津(港)に着く。そこから南西に下ると黒崎海岸(現大牟田市)に至る。


北西の方へは面の坂を下って清水(しみず)から清水川(現・大根川)を超えて、瀬高で矢部(やべ)川に突き当たるので、少し遡ると船小屋に至る。



面上国の王イザギ(伊耶岐)は那国(奴国)の王族であったが、前国王スイショウ(帥升)が心酔する那国の前国王に懇願して後継ぎとして迎えたのであった。妃、イナミ(伊那美)は太陽を神として祭式を司る一族の巫女で、母アヤカ(阿夜可)が斎主(いわいぬし)である面上国の祭殿に務めていたが、新国王イザギに見初められ、やや強引に妃にされたのであった。



イナミが懐妊して、お腹が目立ち始めた頃、アヤカから相談を受けた。


「お妃、出産が近づいとるけど、お産はどげんすっとね。一族の慣習じゃ矢部の日向に里帰りすっとばってんね」


「そうね。あたいも里帰りしたかばってん、王さんのどげん言わっしゃるか分からんもん」


「わしから聞いてみようか」


「いや、あたいが言うてみるけんよか」




後日、イナミから連絡があり、里帰りが決まった。


そうなると、アヤカは大忙しである。


女官長と祭祀部の大臣を呼んで、里帰りのお供の女官の人選と御輿の準備、担ぎ手の人選、道順などを至急手配するよう依頼した。自身は日向の一族の長(おさ)に産場や祈祷の祭壇、産婆の準備などを依頼した。




里帰りを数日後に控えた日に巫女の一人がアヤカのところに駆け込んできた。


「斎主しゃん、御輿の出来(でけ)たげな。祭殿の表に持って来とらっしゃるばんも」


「そげんね、出てみようかね」


祭祀大臣や大工などの男衆が出来立ての御輿を囲んで集まっていた。


御輿は2本の長い乾燥孟宗竹の中央に、半割の竹を並べて座を固定し、四隅にこれも竹の柱を立てて屋根の骨組みを支えている。座には厚手の筵(むしろ)を敷いてその上に大きめの座布団が置かれている。座の両側には手すりがあり、屋根には日よけの簾が垂らしてある。


アヤカは「うあー、良か御輿の出来(でけ)たね。ちょっと、乗せてもろうてよかね」


と言いながら座布団にちょこんと座ってしまった。


担ぎ手の男衆が「ほんなら、担がせてもらいまっしょうか」と4人で担ぎ上げた。


「どげんね、重かね」


「思うたより軽か」「重なか」「いっちょん(少しも)重なか」と言いながら一回り担いで歩いた。


アヤカが下りてから、大臣が「ほんなら8人で交代で担いでよかか」というと、皆「よか、よか」と口をそろえた。


一段落して、アヤカが大臣に尋ねた。


「道順は決まったね」


「あい、山越えが近かばってん、御輿じゃちょっと無理のごたるけん、東山の山沿いを本吉(もとよし)を通って矢部川に突き当たると、川沿いを黒木まで歩き一泊しますたい。あくる日は矢部川沿いの木曳道を遡(さかのぼ)って矢部の日向に向かいますばい」


「清水川の橋はどげんね」


「先月の大雨で流されてしもうたばってん、新しか丸木ば組んで、土を固めとるけん大丈夫ですたい」


「そんなら安心たい。途中の休み処もちゃんと頼んどってね」


「はい、そげんしとりますばい」




里帰り当日は早朝に宮殿前の広場に祭祀大臣と官史2人、道案内人2人と御輿担ぎ衆8人、護衛の兵士4人、荷物担ぎの下人数人があつまっていた。そこに斎主アヤカと巫女2人、女官長と女官2人に付き添われたイナミ妃が現れた。また、見送りのイザギ王はじめ数十人の大臣や官史たちもぞくぞくと集まってきた。


全員が揃ったところで、イナミ妃が御輿に乗り込み、30人近くの行列が出発した。どの顔もみな晴れやかで、浮き浮きとしていた。


行列は河原内(かわらうち)まで坂をゆっくりと下り、次の休憩点、本吉に向かってにぎやかに進んでいった。珍しい大行列に、沿道には数日前からの道の整備の折に聞いたのか、大勢の村人が道の両側に座って手をたたいて見送った。本吉で一服した後、担ぎ手が代わり、矢部川と突き当たる唐尾に着くと持参の握り飯と飲み水が配られ、木陰で三々五々にぎやかに昼食を取った。


7月の川沿いの田んぼには青々とした稲が伸びて、渡る風が心地よかった。


食事が終わると、そこからは川沿いに、途中一度休憩を取って、まだ、陽の高いうちに今日の宿泊地である黒木(後世の黒木瞳の出身地)に着いた。


黒木は交換市が立つ大きな集落で、各地から来た商人たちの宿屋もある。一行が到着すると、邑長(むらおさ)や役人、大尽など多くの人々に出迎えられた。


イナミ妃とアヤカは邑長の家に迎えられた。夕方、水浴みの後で歓迎の宴会になったが、二人は早めに切り上げて寝所に入ってゆっくりくつろいだ。


「お妃、体ん具合はどげんね」


「長か時間揺すられたけん心配したばってん、どげんなかったごたる」


「そらよかったたい。今夜は早よ寝ろたい」


「お母(っか)さん、二人だけん時、聞きたか事(こつ)んあっとよ」


「何ね」


「あたいの本当のお父(と)っあんな誰ね」


「いつか話さんじゃったかね。お日さんたい。春先に渓谷(たに)の滝に打たれた後、水ん冷たかったけん裸んまま岩に寝そべって温めとったら眠ってしもうとったたい。目が覚めたら仰向けになっとってお日さんに曝らされとったたい。だけんお前のお父っあんはお日さんに間違いなか」


イナミは笑いながら「そん話は小まか時から知っとった。巫女になったけん都合んよかったばってん、本当はどげんじゃったとね。男ん人と寝た事(こつ)はなかったとね。」


「そら、斎主になる前は旅のえらか人ん相手ばさせられたり、夜這いされた事もあったばってん、名乗らっしゃらんと誰かわからんとたい。じゃけんお日さんにしとってくれんね」


「スイ爺(じい)(前国王)が時々来よらしたけど、関係なかとね」


「あんお人は冬の寒か時なんかに、温まらせてくれんねち言うて布団に入って来よらしたばってん、何もなったとよ。スイ爺も父親になってやってもよかち言いよらしたよ」


「もう、妃になったけん父親はいらんよ。ようわかった。お母さん、話してくれてありがとう。なんだかすきっとした。もう寝ようか」


「そうね、おやすみ」




翌朝も早立ちで、邑の人たちに見送られながら全員そろって矢部川沿いの道を歩き出した。途中、支流が合流するところは川幅が狭いと丸木橋であるが、少し広いと筏(いかだ)を浮かべて杭で固定しているのだが、不安定なので、お妃には御輿を降りてもらって、二人の担ぎ手に両側から抱えてもらって渡った。


道のそばの木陰のある原っぱでお昼をとったが、黒木の人たちからいただいた握り飯や栃餅を皆美味しそうに頬張っていた。ご飯が済んだ頃、川上から木曳きの一行が大きな声を掛け合いながらやってきた。実は一行が通る間は木曳きをやめようかと相談を受けていたのだが、お妃はじめ誰も見たことがないので見てみたいと依頼していたのだ。


材木は直径2m近くで長さは優に10mはある、大型の丸木船用と思われるタブの木か楠木の大木である。前側と後ろ側を撚った太い蔦でくくり、長い両端を川の両岸の数人の曳き手が持って引っ張っている。長い竿を持った頭(かしら)は材木の先頭に乗って舵を取りながら号令をかけている。この勇壮な光景を邪魔にならない所から見物している一行は皆「すごかー」、「すごかねー」と感嘆の声を上げてよろこんでいた。


午後は思ったより長い道のりで、途中2度休憩して日向の里に到着したのは夕暮れ近くであった。日向の里は後世に市町村制がしかれた時、日本一人口の少ない村と言われた矢部村の奥に、稲作と太陽を信仰する一族がひっそりと暮らす隠れ里である。


一行は黒木に比べたら簡素な歓迎であったが、温かく迎えられた。


数日後(西暦158年7月13日)、日向の岩屋[現:神の窟(いわや)(高さ8m、幅30m、奥行き9m)]の一画に万幕が張られ、その中でイナミは陣痛に耐えながらイザギから贈られた銅鏡をしっかり握っていた。その鏡は後漢の光武帝から那国王に授けられた神獣鏡の一つであった。万幕の前には祭壇が設けられ、国王の第一子の安産の儀式が斎主アヤカにより行われていた。その日は晴天の暑い日で、太陽がまぶしく輝いていたが、お産は長引いていた。万幕になかでは、儀式を済ませたアヤカと産婆がイナミの体を擦り乍ら励ましていた。夕方近くになるとなぜかいつもより早く空が次第に暗くなってきた。西の空を見ると赤い太陽が少しずつ黒く欠けていき、ついには太陽が真っ黒になってしまった。生誕を見守っていた邑長や邑人たち、王城関係者は皆仰天して大騒ぎになった。


「お日さんが死んしゃった!この世の終わりじゃ!」


「祟りじゃなかろうか!」


数分経って、甲(かん)高い赤子(ややこ)の泣き声が響き渡り、その後、少しずつ明るくなってくると、群衆は静かになった。真っ赤な夕陽が少しずつ大きくなり、真ん丸になって山の端に沈んでいくと大歓声が沸き起こった。


 「お日さんが生き返った!赤子のおかげじゃ!」


 「お日さんの申し子じゃ!めでたか!」


 しばらくすると村人の数人が手に手に火手(ほて)(松明(たいまつ))を持って現れた。この時期に行われる予定だった虫送り(虫追い)行事がお産騒ぎで延びていたのだ。数人が火手をかざして、「めでたか!」、「おめでたか!」と叫びながら田んぼの畦道を回り始めると、残りの邑人たちも火手を取ってきて続々と後を追っていった。薄暗くなった田んぼを照らしながら点々と続く火の行列は、王城の人々の郷愁を誘う夏の風物詩であった。


 虫送りを終えた人々は岩屋の前の広場に帰ってきて、火手を集めて大きな焚火をつくって囲んだ。串刺しの焼き鮎を肴に王様から振舞われた口噛み濁酒を飲んで、夜遅くまで歌って、踊って「太陽(ひ)の王女」の誕生を祝った。


 イナミ妃が元気になって王城に帰ってから、斎主にヒルメ(日霊女)と名前を付けてもらったが、世間では口伝えに生誕秘話が評判になっていて、誰がつけたのかヒナコ(日向子)姫が通り名になってしまっていた。   


翌年の稲穂がたわわに実ったころにはスサオ(須佐男)王子が誕生して、姉弟はすくすくと育っていった。


(第2章 スイ爺の大冒険 に続く